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[蒸気機関車部門]

D51 498
東日本旅客鉄道(JR東日本)が動態保存する蒸気機関車で、
日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が、
製造したD51形蒸気機関車の1両である。
1972年12月1日の廃車後、
上越線後閑駅前(構内脇)にて静態保存されていたが、
JR東日本によって復元され、
1988年(昭和63年)12月23日復活。
主に上越線の「SLみなかみ」、
など様々なイベント臨時列車に起用され、
東日本全域で運転されている。

画像番号IMG 2580.JPGの画像は、
D51 498
新製落成日、1940(昭和15)年11月24日、新製配置、岡山機関区、製造、鷹取工場
転属日、1951(昭和23)年7月1日、転属配置先、岡山
転属日、1953(昭和28)年7月31日、転属配置先、吹田
転属日、1953(昭和28)年12月1日、転属配置先、平
転属日、1963(昭和38)年10月、転属配置先、長岡第一
転属日、1965(昭和40)年4月1日、転属配置先、直江津
転属日、1966(昭和41)年3月、転属配置先、新津
転属日、1972(昭和47)年3月、転属配置先、坂町
転属日、1972(昭和47)年9月、転属配置先、酒田
転属日、1972(昭和47)年10月、転属配置先、高崎第一
廃車日、1972(昭和47)年12月1日、高崎
引退後、上越線の後閑駅前で「静態保存」
車籍復活、1988(昭和63)年11月25日、高崎運転所「動態保存」

モノクロ画像番号IMG 2578.JPGの画像は、
D51−498号機


C57 180
東日本旅客鉄道(JR東日本)が動態保存する蒸気機関車で、
日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が、
製造したC57形蒸気機関車の1両である。
1969年(昭和44年)の廃車後、
新津市(現在は新潟市)立新津第一小学校の前庭に保存されていたが、
1999年(平成11年)にJR東日本によって復元され、
磐越西線で「SLばんえつ物語号(後のSLばんえつ物語)」として運転されている。
復活した蒸気機関車牽引列車(SL列車)の中では、
最長距離(片道約125キロ)を走行する。
また、月に1回程度、「SL磐梯会津路号 / SL郡山会津路号」として、
会津若松駅 - 郡山駅を2日で1往復していた。

画像番号IMG 2584.JPGの画像は、
C57 180
新製落成日、1946(昭和21)年8月8日、新製配置、新潟機関区、製造、三菱重工業三原製作所
転属日、1963(昭和38)年5月、転属配置先、新津
廃車日、1969年(昭和44)年11月8日、新津
引退後、10月12日に新津市立新津第一小学校の校庭の磐越西線側に静態保存
車籍復活、1999(平成11)年3月26日、新津運輸区「動態保存」

モノクロ画像番号IMG 2585.JPGの画像は、
C57−180号機


国鉄C58形蒸気機関車
日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省
1943年11月1日から1945年5月19日までは運輸通信省、
それ以降製造終了まで運輸省が導入した蒸気機関車である。
ローカル線用の客貨兼用過熱式テンダー式蒸気機関車で、
8620形の速度と9600形の牽引力を兼ね備えた共通の後継機として設計され、
1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)にかけて、
431両(国鉄向け427両(樺太庁鉄道向け14両含む)、
天塩鉄道・三井芦別鉄道向け各2両)が製造された。
愛称はシゴハチである。

239号機
239号機は1940年6月に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で新製。
名古屋鉄道局に配属。
1941年に奈良機関区所属を経て1943年5月に宮古機関区へ転属した。
1970年2月28日の山田線無煙化記念列車を牽引した後、
盛岡機関区へ転属し八戸線などで運用された1973年5月1日に廃車となり、
同年から岩手県営交通公園にてオハ35 2001及び「ワム187953」と共に静態保存された。

画像番号DSC 8562.JPGの画像は、
C58−239号機の画像は、
C58 239
新製落成日、1940(昭和15)年6月26日、新製配置、名古屋鉄道局、製造、川崎車輛
転属日、1940(昭和15)年7月、転属配置先、稲沢
転属日、1941(昭和16)年2月14日、転属配置先、奈良
転属日、1943(昭和18)年5月、転属配置先、宮古
転属日、1970(昭和45)年2月、転属配置先、盛岡
転属日、1971(昭和46)年4月、転属配置先、八戸
廃車日、1973(昭和48)年5月22日、八戸
引退後、1973(昭和48)年5月1日、岩手県営運動公園内交通公園に静態保存
車籍復活、2014(平成23)年1月6日、盛岡車両センター「動態保存」

モノクロ画像番号DSC 8564.JPGの画像は、
C58−239号機


C61 20
C61 20は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が、
JR東日本大宮総合車両センターで動態復元された蒸気機関車で、
日本国有鉄道(国鉄)が製造したC61形蒸気機関車の1両です。
D51 1094のボイラーを流用して、
1949年(昭和24年)8月1日に三菱重工業三原製作所にて落成し、
同年8月30日、青森機関区に新製配置されました。
のちに仙台(1950年1月18日)へ転属され、
当時の花形特急「はつかり」や「はくつる」などの牽引を、
担うため長らく在籍され、
1966年12月14日に再び青森機関区へ戻ることになりました。
5年後の1971年、東北本線や奥羽本線の電化が進み、
活躍の場を失った当機は、
最後の地としてはるばる九州地方の宮崎へと赴き、
9月19日より運用開始され、
最終的に1973年(昭和48年)8月28日に、
同機関区での運用を終えて廃車となりました。
新製から廃車までの走行距離は、
2,869,889kmにも及んだ。
当時はSLブームだったこともあり、
当機は国鉄から無償譲渡され、
群馬県伊勢崎市の華蔵寺公園遊園地で、
静態保存されることになりました。
1973年12月18日に、
鹿児島鉄道管理局の出水機関区を出発し、
同27日に高崎操車場へと到着し、
当機が伊勢崎の地にやってきたのは、
年明けの1974年1月17日のことです。
その後、当地で組立作業が行われ、
静態保存機として展示が開始されたのは3月に入ってからで、
JR東日本はこの当機が復元できる可能性を秘めているとして、
当機を近く復元する方針を固めたとの報道が伝えられました。
この時点ではJR東日本からの直接的な動態復元についての告知はなく、
各報道機関への声明発表のみとされていました。
そして12月、JR東日本より12月度記者会見ならびにホームページ上にて、
当機の動態復元についての正式な発表が行われました。
復元後の同機の取り扱いとしては、まず2011年春以降を目処に、
D51 498の本拠地である高崎車両センター高崎支所に配置され、
D51 498同等「SLみなかみ」および、
「SL碓氷」のメイン牽引機として年間110日程度の運行が、
行われる予定であることとされています。
また、D51 498が検査中だったり、
あるいは「SLみなかみ」などの運行で高崎に、
残ったりした際にイベント要請があった場合、
東日本管内のイベント列車牽引機として、
抜擢することも予定されています。
既に運行されているD51形とC57形の両方のシステムや
技術を兼ね備えていることもあり、
整備や運転面などからもバランスに優れていることも、
当機が動態復元機として選ばれた一つの理由です。
当機の復元に伴って、高崎車両センターが保有する旧型客車7両も、
あわせて再整備することが発表されました。
動態復元の正式発表後、華蔵寺公園遊園地は12月下旬より、
同公園を離れることを記念して、
運転室内の特別公開が行われました。
また、当機の復元を祝う看板を用意したり、
報道当時の新聞を諸元の隣に公開するなど、
復活への意気込みをアピールしました。
最終的な展示は年明けの2010年1月11日まで行われ、
その後は復元準備のために当機の周囲への
立ち入りを禁止する処置が施されました。
1月19日、3台のトレーラーによって炭水車、
ボイラー、主台枠および走り装置の3つに分けられました。
翌20日未明より搬送され、
同日の明け方までに復元工事が行われる大宮総合車両センターへ到着、
21日に復元工事着工式が執り行われ、
本格的な解体作業が開始されました。
この復元には、映画「男はつらいよ」などで、
知られる山田洋次監督が、
このC61 20の復元にまつわる作業などを、
ドキュメンタリー映像として記録したいとの申し出があり、
復元の流れに沿って映像を撮影しています。
ボイラーは3月から11月までの間、サッパボイラにて修復を実施、
また動輪・車輪は住友金属にて整備・新造が行われました。
その後、復元工事は順調に進み、
12月10日には帰ってきたボイラーと整備が、
終わった主台枠との取り付け作業が行われました。
明けて2011年(平成23年)1月27日大安に、
ほぼ完成を迎えた当機の火入れ式が同センター内にて行われ、
これを以って1973年に火を落として以来、
38年ぶりに当機のボイラーに火が再び入れられました。
2月21日より、同センター内の工場試運転線にて構内試運転が実施され、
白煙を上げ汽笛を鳴らす当機の復活を迎えました。
この際、初日の21日と最終日24日は「はつかり」のヘッドマークを掲げ、
続けて23日には2009年暮れに、
D51 498が上越線で試運転を行った時に、
掲げられた「C61復活記念 ゆうづる風 試運転」の
ヘッドマークを掲出して試運転を行っていました。
東北新幹線「はやぶさ」運転開始の3月5日には、
これにあわせたイベントを開催し、
「はやぶさ1号」及び「はやぶさ3号」との並走を試運転線で実施しました。
この際、当機には日本貨物鉄道(JR貨物)門司機関区から借りた
「はやぶさ」のヘッドマークを装着し、
更に鉄道博物館の車両展示線にて初めての一般公開、
及び完成後の報道公開が行われました。
3月31日付けで車籍復帰を果たして大宮総合車両センターを出場、
4月1日深夜には新しい住処となる高崎車両センターへ回送されました。
なお、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による当機への影響は出ていませんが、
電力供給不足などによる理由により予定より数日ほど遅れて出場しました。
高崎駅 - 水上駅間で本線試運転が幾度か行われた後、
高崎発水上行き「快速SL C61 復活号」の牽引を以って、
復活営業運転を開始されました。

画像番号IMG 0374.JPGの画像は、
C61 20
製造時形式車番、D51 1094 
新製落成日、1944(昭和19)年5月31日、新製配置、弘前機関区、製造、日本車輌製造
改造後、C61 20 
改造施行日、1949(昭和24)年7月31日、改造後配置、青森機関区、
改造工、三菱重工業三原製作所
転属日、1950(昭和25)年1月16日、転属配置先、仙台
転属日、1966(昭和41)年12月15日、転属配置先、青森
転属日、1971(昭和46)年12月14日、転属配置先、宮崎
廃車日、1973(昭和48)年11月18日、宮崎
引退後、1974(昭和49)年3月、伊勢崎市華蔵寺公園に静態保存
車籍復活、2011(平成23)年3月30日、高崎車両センター「動態保存」

モノクロ画像番号IMG 0375.JPGの画像は、
C61−20号機


東武鉄道 C11 207
北海道静内町(現・新ひだか町)の山手公園に静態保存されていた。
2000年(平成12年)3月3日にJR北海道に返還され、
苗穂工場で修復を受け、同年9月30日に車籍復活し、
10月7日より函館本線小樽(後に札幌)
ニセコ(後に蘭越)間の「SLニセコ号」に使用されるようになった。
復活1年目は動輪軸受の異常発熱が頻発して満足に運用できなかった。
そのため、修理と調整を繰り返した末、
翌年になってようやく安定稼働するようになった。
以後はC11 171の予備機という扱いで「SLニセコ号」のほか、「SL冬の湿原号」、
「SL函館大沼号」などにも使用され、時折C11 171との重連運転も実施された。
2014年(平成26年)7月、鉄道ジャーナル2014年8月号において、
C11 207が同年6月8日の
「SL富良野・美瑛ノロッコ1・6号」の運用をもって営業運転を終了したという記事が掲載された。
しかしこれは同誌の誤った情報であり、
実際は検査期限である同年秋まで運用されることになっており、
同11月の札幌 - 小樽間での団体臨時列車を最後に、道内での運用から退いた。
上記のとおり動輪の調子が依然芳しくなかったことをはじめ、
本機に対しての新型ATSの設置が難しいこと、
北海道旅客鉄道内での営業不振に伴う財政難や機関士確保が難航したことなどの影響により、
同年以降はC11 171のみで運用されることになった。
道内での運用から退いたC11 207については、東武鉄道が借り受け、
2017年度(平成29年度)より東武鬼怒川線の下今市 - 鬼怒川温泉間で運行、
列車名称は「SL大樹(たいじゅ)」。
苗穂工場にて全般検査を施工の上2016年8月12日に苗穂工場を出場、
8月19日に南栗橋車両管区に入場、9月12日に火入れ式が行われた。
その後、同区内にて新設されたSL検修庫にて同鉄道運用のための改造工事が実施された。

1941年12月26日竣工として日立製作所笠戸工場にて製造(製番1488)。
当初の配置区は不明だが、C11 171と同じく3次形の1両。
1949年3月31日に尻内機関区に転属した。
1972年(昭和47年)12月8日に長万部機関区に転属してからは、
瀬棚線の貨物列車などに使用されたが、同線の無煙化に伴い、
1974年6月30日に「瀬棚線SLさよなら列車」に使用された。
同年10月1日に廃車となった。

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東武鉄道C11 207号機
新製落成日、1941(昭和21)年12月26日、新製配置、札幌機関区、製造、日立製作所笠戸工場
転属日、1942(昭和17)年1月、転属配置先、静内
転属日、1971(昭和46)年10月1日、転属配置先、苫小牧
転属日、1972(昭和47)年12月8日、転属配置先、長万部
廃車日、1974(昭和49)年10月1日、長万部
引退後、1989(平成元)年8月、静内町山手公園に静態保存
車籍復活、2000(平成12)年9月30日、JR北海道旭川運転所「動態保存」


モノクロ画像番号DSC 7745.JPGの画像は、
東武鉄道C11 207号機


真岡鐵道C11 325
本機は1946年(昭和21年)3月28日に日本車輌製造本店にて落成(製番1418)。
4次形の後期製造グループに含まれ、
「戦時設計」「戦時工程」による大幅な簡素化が図られていた。
1996年(平成8年)、
C12 66により「SLもおか」を運転していた真岡鐵道が、
予備機として使用するため、
3月27日に水原中学校から真岡鐵道真岡駅前に移設された。
翌1997年(平成9年)11月より、
JR東日本大宮工場(現在の大宮総合車両センター)にて動態復元工事が行われた。
特記以外全て使用される客車は高崎車両センターの旧形客車である。
SL会津只見号など臨時多数(真岡鐵道より借受)。
「SLもおか」の予備機として真岡鐵道真岡線で使用されている車両を借用し、
主に只見線や石巻線、
現役時代末期に活躍した左沢線などで出張臨時運転している。

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真岡鐵道C11 325
新製落成日、1946(昭和21)年3月28日、新製配置、茅ヶ崎機関区、製造、日本車両熱田工場

転属日、1966(昭和41)年7月、転属配置先、浜川崎
転属日、1967(昭和42)年3月23日、転属配置先、米沢
廃車日、1972(昭和47)年5月、米沢
引退後、1973(昭和48)年12月、新潟県水原町(現・阿賀野市)水原中学校に静態保存
車籍復活、2000(平成10)年9月25日、真岡鐵道「動態保存」
2020(令和2)年7月30日、東武鉄道へ譲渡



モノクロ画像番号IMG 2583.JPGの画像は、
C11−325号機